国民の無意識に鬱積した怒りのようなもの

岸田首相を狙って襲撃する事件が4/15和歌山県の漁港の演説の際に起きてしまった。

襲撃した人はどのような人で、安倍首相の時の山上容疑者のような個人的な恨みなのか、あるいは政治的な意図を持ってのものなのか、現時点ではわからない。

欧米では何か政治的に、ある法案について反対する場合にデモを盛んに行ったり、ストをしてみたり、それが暴動に発展したりと日本と比較して過激なまでの意思表示をしている印象がある。

それだけ国民一人一人が必死なのだろうと、民主主義を行使してやろうという気概が違うのだろうと思って見ている。

それに対して日本人は意思表示をはっきりすることは、はばかられる雰囲気がありデモは起こったとしても暴動ということにはなかなかならない。

暴動が起こることが良いことだとは言わないが、必死に何かを訴えるという気概、個人個人が権利や思想を訴えるという意志が欧米と比較して希薄な印象はある。

そんな日本で、昨年7月の安倍晋三銃撃事件から1年も経過しないうちに今度は岸田首相が狙われた事件が起きるとは思っていなかった。

日本人が変わったというか、日本人の心の中に何か、怒りのような感情が鬱積しているのではないかとも思える。

怒りがマグマのように鬱積していて、火山のように盛り上がる部分が現れて、たまに噴火してしまうくらいに圧力が高まる地点が現れる、そんな現象が起きているのかもしれない。

個人的には、岸田首相は安倍晋三よりもかなりましだと思っている。

皇統問題についても議論をしていくと明言したし、ウクライナの現地に行ってゼレンスキー支持の立場を鮮明にしたし、統一教会とも縁を切っていく方向に動いていくのだろうと期待している。

岸田首相を今殺したとして、何になるのだろうか?という気持ちが俺にはある。邪魔せずに岸田首相をある程度は信用したいと思っている。

いまの政治家が堕落していると思わせるようなことがあまりにも多いので緊張感を持たせるためには、本気で怒らせたら殺しにくる人もいるかもしれないと、そう思わせることは悪いことではないかもしれない。

でもね、やはり気に入らなければ殺してしまえばいいというところに行ってしまったらそれは議論自体が成り立たないということであって、それこそ民主主義の根幹である議論の破壊であるから本当にそれをやってしまったら、それはダメだと言いたい。

来島恒喜は大隈重信を襲撃する時に、自分も死ぬ覚悟をしていた。

爆弾を大隈が乗っている馬車に向かって投げ、命中させる。

その後すぐに、来島は自分の首に短刀を突き刺し、喉をかっ捌いて自決している。

常人にはとても真似できない堂々とした武士として死んでいった。

一方、大隈は片足を失ったが、一命はとりとめた。

しかし、来島が反対し大隈が進めようとしていた裁判所の外国人判事任用案はこの襲撃の後トーンダウンし国会で可決されることはなかった。

死して目的を達したということだ。彼は命と引き換えに一つの政治的目的を達成した。

今回の襲撃の容疑者に来島ほどの覚悟と崇高な理念があったのかどうかわからないが、国民の中に怒りの感情のようなものが鬱積していて、それが日本のいたるところで暴発寸前の状態ということには違いないだろう。

暴力を使うことを肯定はしないが、その怒りの感情の発露がこの国を正しい方向に向かわせる原動力になるとよいとは思っている。

まあ、理念が間違っていた場合は結局、間違った方向に行ってしまうのだろうけど。

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