ニューノーマルなんかアホらしくて定着するわけがない〜その3〜

正直、俺の鬱憤を晴らしているだけの感じになってきてしまったこのシリーズ。

とりあえずこれで最後にしようと思う。

子供騙しのようなアイデアに騙されてはいけない

ソーシャルディスタンスというものを取るために長さ2mのバトンでリレーをさせるという愚行も行われた。

バトングニャグニャだし…

バトンの素材が紙製なのかわからないがグニャグニャで、これで2mが確保できたていたのだろうか。

2mのバトンを作っても隣のレーンを走る人とすれ違うことがあるとしたら2m確保なんかできない。

こんなバトンを持って走ること自体が愚行だ。走りにくくて仕方がないだろう。

子供たちに対して、まさに子供騙しのアイデアでこのバトンを考案した先生方に言いたいのは正気なのか?ということ。

普通にやってほしい。普通に運動会をやってほしい。たかがインフルエンザと同等の風邪レベルの感染症でなぜこんなことをしなければならなかったのだ。

善悪を区別し美醜を見分けるのは難しいこと

マスク会食もアバター卒業式も2mのバトンも不要だ、要らないのだ。

俺はこれらの行為に共通している偽善の臭いが嫌いだ。

一見、感染対策になっているようで実は科学的根拠が一切ない。

一見、最先端に見えるようで実は薄っぺらな虚飾だ。

一見、すばらしいアイデアのように見えるが実は浅はかで幼稚。

このコロナ騒動の最中に日本でもノーマスクで開催され続けていたイベントもある。欧米では一昨年2021年の秋頃から感染者数は日本より多い状況だったがマスク着用などの規制は緩和、撤廃し始めていた。

しかしこの新型コロナを恐怖の感染症だとテレビや新聞は騒ぎ続け、それらに影響された大衆もまた騒ぎ続け、ついには必要以上の感染対策が定着し、マスクをしていない人は人でなしくらいのマスク強制同調圧力が呪いのごとく日本を覆い尽くしてしまった。

ニューノーマルの名のもとに行われた奇行は、コロナ騒動の呪いそのものを強化するものでしかなく、公共のためのものであったとは言えない。

むしろ悪行に加担していたとも言えるほどだ。やっている本人たちは人のためと思っているかもしれないが、それは勘違いだ。

ハンナ・アーレントの言葉を思い出したので書いておきたい。

“思考の嵐”がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように

映画「ハンナ・アーレント」のセリフより

ニューノーマルがナチスが行ったことと同じくらいの悪なのかと問われれば、そうではない。

しかし、ニューノーマルと呼ばれる様々な行為は俺の目から見て醜悪だ。

考え抜かなければ、周りに合わせておけばとよいという怠慢を直視できなければ、もしかして自分は間違ったことをしているのではないかという謙虚さを持っていなければ、あっという間に悪魔が入り込んでしまう、しかもその悪魔は善人面をしている。

善悪を区別して美醜を見分けるのは簡単なことではなくて、俺も油断したらいつでも暗黒面に堕ちるだろう。

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