天皇には権威はあるが権力はないという優れた仕組み

皇位の安定継承のためには一刻も早く女性・女系天皇を公認のものとして女性宮家創設を実現しなければならない。眞子様はすでに皇室から離れて行ってしまった、もう時間がなさ過ぎるのだ。

しかし、このことはなかなか国民の中で関心ごとにならないのが現実だ。戦争のように報道すれば絵になるという感じもなく、コロナのように現実的に自分の身にさし迫った問題でもなく、皇室の話題など普段の会話に登場させたらちょっと引かれそうだし、重要な問題であるにも関わらず語られる機会がほとんどない。

ツラすぎる現実だが、この空気をなんとか変えていこうということで「論破祭り」なるものが現在進行中だ。小林よしのりがノイジーマイノリティの男系論者を論破せよ、ということで始まったわけだが、俺も微力ながらTwitterに投稿してみた。まあ、俺の場合フォロワー数とか少なくて影響力ほぼゼロだが…。

今回のテーマは天皇と皇室の存在は、日本人が歴史の中で獲得した安定した国家運営のために権威と権力を分けた優れた仕組みでもあるということについて、小林よしのりの「天皇論」を参考に考察していきたい。

権威と権力を合わせ持った独裁の危険性

まず、権威と権力を持った独裁者が治める形をとる国がどのような運命をたどってきたか、シナ(中国と言うと満州や内モンゴルやチベットも含んでしまうので、それらを含まないシナで説明する)の歴史を見ていく。

シナにおいて、過去の歴史上でその広大な土地を支配する王朝は何百年かあるいは数十年それよりももっと短い期間、数年で入れ替わってきた。

紀元前221年に天下を統一した秦の王、嬴政(えいせい)が自ら「皇帝」の称号を考案して始皇帝を名乗る。そこからシナで天下を治める者は皇帝を名乗ることになる。

この皇帝の交代の歴史は殺戮の歴史と言ってもよいくらいに大量殺戮が行われている。秦として統一するまでの過程でも130万人の兵士が殺戮された。投降してくる敵兵も全て皆殺しした結果当時のシナの人口は20分の1まで減ったと言われている。

古代シナの皇帝は天から選ばれた中華文明に君臨する絶対的な存在だった。

始皇帝が没すると後継者争いが起こり、項羽と劉邦が登場し項羽を破った劉邦が漢王朝を樹立して皇帝となる。しかし劉邦がなくなると妻の呂后は劉氏一族を皆殺しにして呂氏一族に権力を集中させようとした。

しかし呂后が病死すると劉恒、劉徹らが呂氏一族を皆殺しにして劉氏の皇帝が続く。これを前漢という。その後、前漢の末期には劉氏の支配が揺らぎ始め外戚にあたる王莽が帝位を簒奪し新を樹立する。

しかし新ですぐに農民の反乱にが起こり、この混乱に乗じて劉秀が挙兵し王莽を殺してしまう。そして再び劉氏が皇帝について後漢を成立させる。

このように天下を取るものの姓が替わっていくのは「易姓革命」と呼ばれている。そしてここまでの話からもわかるように革命が起こるたびに殺戮が繰り返されていることがわかる。

シナでは王朝が代わるたびに税の徴収のための戸籍調査が行われてきたため人口の推移についてはかなり正確な情報が得られる。人口動向から見えてくるのは王朝の交代時期に人口が激減しているということだ。易姓革命で混乱が起きると男性は兵役にとられ田畑は荒れ、屠城とよばれるひとつの城壁に囲まれた都市まるごと破壊、そこに暮らすすべての人を虐殺するということも行われてきており数千万人の単位での人口減少が起きていた。

三国時代にシナの人口は10分の1に減り、唐が成立する前後20年で3000万人、南宋が元に代わる時に1500万人、明から清に代わるときはなんと5000万人が消えている。

権威と権力を分けることにより安定を得た日本

古代の天皇はそもそも天皇と呼ばれてたわけではなく国を統治する王として存在しており、一時期はシナの冊封体制の中にいて倭国(小人の国という意味)と呼ばれていた。推古天皇の時代のシナ王朝は隋で、推古天皇はその皇帝の臣下としての王としての扱いだったのだが聖徳太子が遣隋使で派遣した小野妹子に持たせた皇帝への書簡で独立戦争のような戦乱を経ることなく日本は冊封体制から脱する。

その第二回遣隋使の書簡には有名な文章が記されている。

「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす。恙(つつが)無きや」

この文章は日本を日出ずる(いづる)ところとし、随を日没するところとしており日本と随を対等の立場として書いていた。あるいは日没するところという表現を煬帝は失礼だととらえた可能性は高い。これを読んで当時の皇帝、煬帝は怒った。

しかし当時、高句麗と争っていた隋としては日本が高句麗側についてしまっては困るという事情もあったためか、小野妹子はとらわれることもなく裴世清という人物までつけて帰国することとなった。

さらに第三回遣隋使の書簡には

「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」

という一文がある。ここで初めて「天皇」という称号が登場するわけだが、これは冊封体制によって囲われている「王」ではなく日本独自で日本を統治するものの称号として「天皇」が記されている。この書簡を持っていったのは小野妹子でこの文章を作成したのは推古天皇の摂政である聖徳太子だった。

煬帝は「天皇」の称号を公式には認めなかったが、黙認の形で「天皇」の称号は定着していく。ここにシナの冊封体制から独立した「天皇」を中心とする日本という国家が成立していく。高句麗との争乱で強い態度に出られないことを見越して、相手にとって無礼であろう、日本が随と対等な国であることをその意に含んだ文章を絶妙のタイミングと絶妙な表現で送り、そして結果それを黙認という形で認めさせてしまった。これが聖徳太子が偉人とされる所以だ。

そしてそれまでは各豪族間の利害調整をする王としての立場から、推古天皇のころから日本社会全体の利益を体現する天皇としての存在へと変化していく。

そして奈良時代から平安時代初期までは天皇は権威と権力を持った統治者であったが、大化の改新を成し遂げた藤原鎌足を始祖とする藤原氏が天皇の幼少期は摂政、成人してからは関白として政治的な実権を握ることになり、政治的な権力は天皇から分離され、天皇は権威のみを持つ象徴としての存在に変わっていく。

鎌倉幕府が成立するときには源頼朝は天皇から征夷大将軍の地位をあたえられる。実際の政治的、軍事的な権力は鎌倉幕府の源頼朝が握っているが、征夷大将軍という地位をあたえたのはあくまで権威を持つ天皇ということになる。

国家の安定と統一を保つためには権威が必要とされる。その権威を決定する方法は能力によるものか血統によるものかの2つになる。

能力によって選ぶのはアメリカや中国などで現在は選挙という形式をとってアメリカでは大統領が、中国では共産党という組織が権威を持つと同時に権力も握っている。一方、日本は個人の能力ではなく天皇の血統に権威を求めている。もちろん天皇には権力はない、政治的決定には一切関わりを持っていないのだ。

この二つの権威の決定の仕方のうちどちらを選んだ国がより安定した国家運営をしてこれたかというと、血統に権威を求めた国だと言える。それはシナの易姓革命のたびに起きた混乱の酷さをみれば一目瞭然だ。

権威と権力を分けることが長期に安定した国家を形成するのには有効であることを日本人は経験から自然に学び、その国家運営の仕組みの中に根付かせてきたのだ。正直、歴史的な経緯を見た感じから日本において権威と権力が分離していったのは偶然のように見える。しかし偶発的にそうなったとしてもその仕組みを千年以上変えずに守ってきた功績は大きい。

天皇という存在を失ったときに何が起きるか?おそらく日本もアメリカのような共和国制になるのだろう。そして権威と権力を併せ持った独裁者が現れる可能性もある、中国からの侵攻を受けて革命が起きてしまう可能性も高まる。一気に国家運営の安定性は損なわれることだろう。

天皇と皇室の存在意義は国家の安定運営という意味においても重要だ。天皇という存在自体を消滅させかねない男系男子絶対主義者達の主張は国家を不安定な状況に陥れる可能性のある問題発言だ。看過することはできない。

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