前回は第一次世界大戦とその後の混乱した状況をみてきたが、話が全然進まず結局第4弾まできてしまった。
ウクライナの地にウクライナとしてのナショナリズムは存在しながらも独立した国家としての存続がなかなかできないまま時間はながれて近代まできてしまった。
今回は第二次世界大戦に至るまでと大戦中、そして戦後から独立達成までをみていきたい。
レーニンのもとでのウクライナ化政策
第一次世界大戦から内戦期を経てウクライナはソ連、ポーランド、ハンガリー、チェコ・スロバキアに四分割された状態となった。
大部分は1922年12月に成立したソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)の枠組みの中で「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国」としてその後70年存続することになる。
ソ連では実質的な権限は共産党にあり、モスクワが全権をもつ中央集権体制下にあった。
レーニンがいるころはウクライナから中央へ意見を述べて、それを通すことなどもしていたがやがてスターリンの時代になるにつれてウクライナの自治は弱まっていき、ついにはモスクワに完全統制されソ連の一行政単位になっていく。
少し時間を戻して1920~1921年の内戦の終結期にウクライナでは飢饉が発生し約100万人が犠牲となったが、この原因は共産党がウクライナ現地の事情を理解せずにおかまいなしに食料徴発を行い、ロシアへ送ったことによるもので、このころ共産主義は極めて不評であった。
レーニンは1921年に社会主義政策を一時中断させて「新経済政策」(ネップ)のもとに自由主義経済を復活させた。

レーニンは現在で言うところのリベラルにあたると思う
集団農業の中止、国有化されていた土地を農民に分配、個人企業復活、外資投入しこのネップ政策は大成功して耕地面積も農業生産性もまたたく間に回復した。
ネップ政策についてはレーニンが柔軟な考えを持っていたからこそこの政策をとることができたが、ソ連成立の黎明期にすでに共産主義の限界が見えていたこを示唆するエピソードだととらえることもできる。
共産党はウクライナでの権力獲得はウクライナ人の支持を得てのものではなく、ロシア赤軍の武力と都市部の住民(ロシア人とユダヤ人がメイン)の支持によるものだとわかっていたため共産党の支配を強めるために一般のウクライナ人を取り込む必要を感じていた。
そして1923年に「土着化」政策が採用され各共和国の民族、文化に応じた施策が奨励されることになり、ウクライナでは1922年には共産党員の23%がウクライナ人だったが1926年には54%に上昇していた。
ウクライナ語の使用も奨励され922年に政府文書刊行物の20%がウクライナ語だったものが1927年には70%に上昇し、ウクライナ文化、文学が一斉に花開き「文化ルネサンス」と言われた。
スターリンは実質的に人殺しの独裁者
レーニンのもとウクライナ化が推進されてきたが1924年にレーニンが死去し1927年にスターリンが権力を掌握すると民族主義に対する締め付けが始まってしまい、1930年にはウクライナ独立正教会の解散が命じられるなど急速に中央集権主義へと舵が切られていく。
スターリンはロシア中心の中央集権主義者で民族の自治拡大には反対だった。
また彼は農民を信じておらず農民は革命の担い手ではなく克服すべき対象と考えていて農民の国で民主主義の強いウクライナには猜疑心を抱いていたようだ。

1928年からの五カ年計画でウクライナでは全ソ連の20%の投資を受けて工業化が進められた。
この時期に機械輸入に必要な外貨を稼ぐために穀物の輸出をする必要があり、それを効率化させる手段として「農業集団化」が強制される。
これは結果的にまったく間違った政策だったことは現在明らかだがスターリンは農民を社会主義体制に組み込むために政策を断行した。
自分の土地を耕して自活していた農民を土地から引き剥がして集団農場に入れて一労働者として働かせて決まった収入で生活することを強要していくことになるのだが当然これには農民からの強い抵抗があった。
豊かな農民は人民の敵であるとして土地を没収されたり収容所送に送られたり処刑されるなど徹底的な弾圧を受ける。
この強引な手法により1928年に集団化された農民は3.4%だったものが1935年には91.3%に到達した。
そして、この無理矢理の農業集団化の結果何が起きたか?
ウクライナでは1932年から1933年にかけて大飢饉が起きてしまう。
この飢饉での死者数は300万から600万人と推計されているが当時のソ連においてはこの飢饉は隠蔽され、ないものとされていたため実際の数字がよくわかっていない。
北カフカス出身で母親がウクライナ系のゴルバチョフはこの飢饉の影響で村民の1/3が死んでしまったと語ったという。
この時期ロシア本体では飢饉はまったくなく、ウクライナからの強制的な穀物の徴発によりウクライナの民のみが飢饉に陥ったということからスターリンによる虐殺にあたると指摘する学者もいる。
そして次にスターリンは粛清を進めていく。
まあ、ろくなことをしていない人物なのがわかると思う。
ウクライナでは1932年頃から粛清が始まり飢饉の責任をウクライナの共産党に押し付け批判し、あるものは自殺に追い込まれある者は流刑となるなどしてウクライナの共産党は1934年までに10万人の党員を失った。
1938年までにこの粛清は全ソ連に広がってウクライナ共産党員は17万人が粛清され壊滅状態となった。
スターリンの暗黒面は第二次世界大戦の勃発からドイツとの激しい戦争に突入する中でうやむやになってあまり目立たなくなってしまうのだが俺としてはスターリンという人物はヒトラーと並ぶほどの大規模な虐殺を実行した人殺しの独裁者だとここで断定させてもらう。
第二次世界大戦における攻防
1939年9/1にドイツ軍がポーランドに侵入しイギリス、フランスがこれに対抗するためにドイツに宣戦布告、ここに第二次世界大戦が勃発する。
1941年6/22にドイツは独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻し4ヶ月後の11月には全ウクライナがドイツの占領下にはいってしまう。
ドイツとしてはウクライナの独立を認めるようなことはなくウクライナの地をドイツへの食糧と労働力の供給源とみなしていた。
ナチス・ドイツはウクライナに対しても容赦なく特にユダヤ人に対する処置は徹底していて、ウクライナにおける多くのユダヤ人も強制収容所に送られ大多数が殺された。
1943年1月のスターリングラードの攻防戦が転換点となりソ連有利に戦況は変わる。
同年夏にはクルクスの大会戦でドイツ軍を破ったソ連は一気に失地を回復していき1944年10月には全ウクライナを占領する。
日本への侵攻をソ連のスターリンが約束するという問題のある内容も含んだヤルタ会談を経て1945年5月にドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦は終結していく。
この大戦でウクライナの人口の約1/6にあたる530万人が死亡し、230万人がドイツでの強制労働を強いられた。
ソ連軍の中には200万人の、そしてドイツ軍には30万人のウクライナ人が含まれており、また敵味方に分かれて戦うことになってしまった。
そしてUPA(ウクライナ蜂起軍)など多くの民族主義者の働きがあったにもかかわらず今回も独立にはつながらなかった。
350年の時を経て独立したウクライナ
第二次世界大戦後スターリンが死去すると1953年にフルシチョフがその後を継ぐ。
彼はスターリンとは違い民族主義に対して寛容な姿勢であった。
1964年からはブレジネフが党第一書記となるが彼の時代は安定していたと同時に停滞の時代とも言われている。
この時代に工業化が進み都市部に住むウクライナ人は増加していった。
1970年代にチェルノブイリ原子力発電所も建設されている。
1985年にゴルバチョフが書記長になるとグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再建)を両輪とする政策を開始する。
彼は抜本的な改革を行えばソ連というシステムは存続しうると考えていたがグラスノスチは国民による国への批判を招くことになり各地の民族主義に火をつけることになる。

1986年4/26にチェルノブイリ原発が事故を起こす。
まだグラスノスチも浸透していない時期だったこともあり28日までこの事故は隠蔽されるがもっと早く公開されて必要な処置をとっていれば助かったであろう多くの人が死に後遺症を抱える人がいまだに何万人といるがこの被害ももっと少なく抑えることができた可能性があった。
ここからウクライナの工業地帯における公害問題についても取り沙汰されるようになり、さらにこれまで抑えられてきた不満が噴出、過去に隠蔽されてきたスターリンによる大飢饉の問題など歴史上の問題までが言われるようになる。
1989年にはスターリンの時代以来禁止されていた「ウクライナ独立正教会」が合法化されるなど民族運動の機運が高まっていく。
1991年8/19モスクワの保守派がゴルバチョフを拘禁しクーデター事件を起こす。
クーデターはロシア最高会議議長のエリツィンの抵抗によりあっけなく失敗し主導権はゴルバチョフからエリツィンに移ることになる。
ソ連は誰の目にももうもたないとみられていた。
この流れの中8/24にウクライナ最高会議はほとんど全会一致で独立宣言を採択する、後にこの日が独立記念日となる。
12/1にウクライナ完全独立の是非を問う投票と初代大統領を決める選挙が行われ90.2%が独立に賛成し大統領はルーフ(ペレストロイカのためのウクライナ国民運動)という組織で独立運動を率いてきたクラフチュークが選出され初代大統領となった。
ウクライナの独立でソ連は事実上解体した。
1650年頃フメリニッキーがかつて目指した独立国家としてのウクライナ国家成立の夢が350年の時を経てようやくここに実現した。
ウクライナの独立は戦争によってではなくロシアのクーデターをきっかけに動き始め、それまで独立したくてもできなかったのが嘘のように、あっという間に独立が成立するという流れとなった。
一通り歴史をみて思うのはプーチンはスターリンやヒトラーなどサイコパスの要素がある人殺しの独裁者にカテゴリーされる人物なのではないかということ。
将来、歴史の教科書にはプーチンによるウクライナ侵攻は正当性のない間違った行為として書かれるだろうし彼はおそらく、かなり高い確率で、狂った独裁者として語られるのだろう。