まずウクライナの歴史を勉強してみる~その3~

ウクライナの歴史シリーズ第3弾は第一次世界大戦以降の話になるが、もうこの辺りから多数の国と組織が入り乱れて何が何だかわからない混沌とした状況となっていく。

ウクライナは結局ずっと長い間、ナショナリズムがそこにありながら国家という形を取ることができずに存在してきた。

異国の民が統治する状態が長く続いた。

特にロシアはソビエトの時代も含めてウクライナを抑圧し続け、武力にうったえて征圧するということを繰り返したことがわかる。

そして現在もその歴史は繰り返されている。

ボリシェヴィキと中央ラーダは対立した

1914年7月に第一次世界大戦が始まると、ロシアは英仏側の連合国となりオーストリアはドイツ側の同盟国となったため同じウクライナ人が自分達を抑圧している国のために敵味方に分かれて戦うことになってしまった。

この大戦はそれまでの国境線だけでなく国の体制などに影響をあたえ、国際社会の様相はそれまでのものから大きく変化していく。

まだ一次大戦が終わらない1917年のロシア帝国の首都ペトログラードで労働者のデモに兵士が発砲することを拒否したことから発展して専制君主への不服従が拡大しニコライ2世を退位に追い込むこととなった。

ここにツァーリによるロシアの帝政は終わりを告げる。

その後、リベラル派を中心とする臨時政府と社会主義者が主導権を握る労働者と兵士代表の「ソヴィエト」が激しく対立した。

キーウに二月革命の報が伝わるとウクライナの諸政党や社会、文化、職業団体の代表が集まり「ウクライナ中央ラーダ」が結成された。

さらにロシアでは十月革命が起こり、レーニンの指導するボリシェヴィキが武力によって臨時政府を倒してソヴィエト政府を樹立した。

まあ共産主義の源流であるボリシェヴィキがそもそも暴力的な組織であったということの証左で、現在に至るまで、その後の共産主義に暴力の影が感じられるのは結局、共産主義というものが暴力による統制なしでは成立しないことを意味しているのだろう。

話を戻すがこのボリシェヴィキとウクライナの中央ラーダは対立した。

穀物、砂糖、石炭、金属などの産業においてウクライナはロシアにとって不可分な存在でありボリシェヴィキ政府はウクライナは当然ロシアの枠内に入るべきものと考えていたからだ。

ボリシェヴィキはまたまた武力を使って今度はウクライナを手中におさめる方針をとり1917年12月ボリシェヴィキ軍12000人がキーウに向かって進軍する。

現在起きていることと同じようなことが歴史上何度も繰り返されていることがわかる。

ボリシェヴィキに対抗するためにウクライナの中央ラーダ政府はドイツとオーストリアと講和条約を結ぶ。

この条約はボリシェヴィキと戦う代償として食糧100万トンを供給するという内容だった。

そしてドイツとオーストリアは45万の軍勢をもってウクライナに進駐、この軍勢との衝突を避けてボリシェヴィキはキーウから撤退してしまった。

中央ラーダ政府はウクライナを取り戻したものの食糧の調達能力に欠け、その行政能力の無さにドイツ軍は愛想をつかした。

1918年4月にドイツ軍は中央ラーダの会議場に乱入し中央ラーダを解散させ、傀儡としてのヘトマン政府を擁立しウクライナの穀物をドイツに調達させたがウクライナの民から大きな反発を招くことになった。

そしてドイツは7月には第一次大戦の敗戦が濃厚になり11月に敗戦が決定的になると同時に突然この支配は終わりドイツ軍はウクライナの地から撤退していった。

内戦状態となり最後に残ったのは

中央ラーダの残党たちは残されたドイツの傀儡のヘトマン政府に対抗するために「ディレクトリア」(指導部)という組織を作り軍事はペトリューラが握った。

そしてペトリューラ軍はヘトマン軍と戦いこれを破りヘトマン政府は消滅する。

西ウクライナではハーリチナとブコヴィナの指導者たちが「ウクライナ国民ラーダ」を結成し国民国家を設立することを宣言し青と黄のウクライナ旗がリヴィウの市庁舎に翻った。

そして「西ウクライナ国民共和国」の設立が宣言されたがこの共和国の政府がリヴィウにあったのはたった1週間ほどだった。

当時リヴィウの街にはポーランド人が多く住んでおり市内でポーランド人とウクライナ人が激しく対立することになった、その結果人口の多いポーランド人勢力の攻勢に耐えられず西ウクライナ国民共和国はリヴィウを撤退せざるを得なくなってしまう。

そして、1919年7月に東ウクライナに避難しディレクトリア政府と合流する。

その後はさまざまな組織、勢力が争いを重ねる近代のヨーロッパでも例を見ないくらいの無秩序な内乱状態に陥っていく。

下記に挙げた6つの勢力がせめぎ合うことになる。

・ディレクトリア政府 (ペトリューラが率いた ウクライナ国民共和国の政府)

・白軍 (デニキンが率いた反革命軍 ロシア帝国の復活を目指す)

・協商国(西側諸国とくにフランス)

・ポーランド(ウクライナをドニエプル川まで併合したい)

・パルチザン(農民の反乱軍 特にマフノ率いる国軍はひときわ抜きん出ていた)

・ボリシェヴィキ(共産党、赤軍 レーニンが指導している)

そして最後に残ったのはボリシェヴィキだった。

ウクライナに攻め入ったボリシェヴィキは1920年秋にはペトリューラのウクライナ軍、デニキンの白軍を壊滅させポーランド軍を駆逐して和平を達成、反ボリシェヴィキのパルチザンも1921年8月には鎮圧された。

ウクライナは中央ラーダが存在した短い期間、独立していたが短期間に終わってしまった。

豊かな土地を持つがゆえにロシアとしては絶対手放せないという固い決意があったのだろう。

ウクライナが本当の独立を手にするまでにはもう少し時間を要することになる。

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