なぜ、ロシアはウクライナに侵攻したのか疑問に思う人は多く存在するはず。
俺もその一人だ。
あれだけ広大な国土を持つロシアがなぜウクライナという国を必死になってとりに行くのかがよくわからない。
ただプーチンがそうしたいから、なのだろうか?その理由について考察してみたいのだが、その前にまずはウクライナの歴史をたどりながらみていきたいと思う、現在起きていることの原因などを歴史の中に見つけることができるかもしれないので。
俺がまとめるとかなりざっくりになってしまうが「物語ウクライナの歴史」黒川裕次著 を参考にまとめていきたい。
スキタイ人の時代から7世紀ごろまで
ウクライナは現在でこそ一つの国家として存在しているが、歴史上の長い間独立した国ではなかった。
話はかなり過去にさかのぼって紀元前700年から紀元前200年まではスキタイ人が黒海北岸、つまり現在のウクライナの土地で栄えた。
スキタイ人はウクライナの土地で遊牧民として生活していたが、肥沃な土地を利用した農耕をする民も現れ遊牧民である中枢の王族が支配する形をとっていた。
また、スキタイ人の商人も存在しギリシャと交流して富を築きその結果スキタイ人は高いレベルの文化を持っていた。
やがて紀元前4世紀ころから入り込んできたサロマタイ人に追いやられてスキタイ人はクリミア半島に閉じ込められてしまう、そして最終的に紀元3世紀ころゴート人のクリミア侵入によりスキタイ人は歴史の舞台から消え去ってしまう。
その後、ゴート族(紀元3世紀半ば~4世紀末)、フン族(4世紀後半~6世紀半ば)、アヴァール族(6世紀半ば)、ブルガール族(6世紀末~7世紀半ば)などの諸民族が入り込んで支配したがスキタイ人のように交易を発展させて文化を花開かせるようなことはなかった。
ただこの間、現在ウクライナの一部である黒海北部沿岸はずっと東ローマ帝国だった。
スキタイ人が支配していた範囲はクリミアを含めた黒海北部沿岸一帯も含んでいたので、そちらの方が現在のウクライナの国土の範囲には近いが、ゴート族以降の時代は力のある東ローマ帝国という国に黒海北部沿岸は支配されてしまっていたということだ。
キーウ・ルーシ公国の時代
キーウ(ついこの間までキエフと表記されていたが最近表記が変わった)という街は6世紀後半ころ東スラブ人により建設されたとされている、そして7世紀半ばから9世紀に栄えたハザール人によるハザール可汗(はん)国の交易の拠点として栄えていく。
一方、現在のウクライナ北部からベラルーシ、ロシアに至るあたりでキーウ・ルーシ公国が建国されるが、建国の経緯としては8世紀ころからスラブ人の地にヴァイキングの時代にスカンディナヴィアから訪れたヴァリャーグ人がスラブ人の土地から略奪によって得たものによってハザール可汗国やイスラム帝国やヴィザンツ帝国と交易をして栄え、スラブ人の地を支配してく。
東スラブ人はヴァリャーグ人に貢ぎ物を納めていたが、いったんはヴァリャーグ人を海の向こうへ追い払い自治を始める。
ところが、やがて東スラブ人同士での争いが絶えなくなりまとまりがつかないため、かつて退けたヴァリャーグ人に公となり自分たちの土地を治めることを依頼することになってしまう。
スラブ人の土地でヴァリャーグ人は「ルーシ」と自称していた。
ルーシの首長リューリクが一族を引き連れて海を渡り東スラブ人の地のノヴゴロドに到達し862年にノヴゴロド公となる。
こうしてリューリクはキーウ・ルーシ公国やその後のロシアを治めるリューリク王朝の祖となった。
リューリクの死後、一族のオレフが後見となりハザール可汗国への貢ぎ物を中止させさらにビザンツ帝国のコンスタンティノープルに2000隻の船を率いて攻め入りルーシの商人を優遇する条約をかわすことに成功する、そして首都をノヴゴロドからキーウに移しキーウからノヴゴロドに至る広大な土地を支配した。
実質的にはオレフがキーウ・ルーシ公国の創始者と言われている。
その後、様々な公が現れて栄えるが詳細は省く。
やがて13世紀はじめにおこったモンゴルからの征服軍がやってくることになる、ジンギス汗の孫バトゥに率いられた征服軍は1237年にやってきて1240年にキーウに到達しキーウの街を包囲する。
軍事指導者ドミトロに率いられてキーウ市民は抵抗を続けたが1240年末に陥落する。
そしてモンゴル支配の時代がはじまるが、モンゴルの目的はあくまでその土地の支配と税収であり、後世のロシアの歴史家は「タタールのくびき」として暗黒の時代としているが(モンゴルはロシアやヨーロッパからタタールと呼ばれた)、それは少し大げさな表現であり現実は服従と納税の代わりにモンゴルが平和と秩序を保証するパックス・モンゴリカとも呼べるような時代だった。
モンゴルの支配下ではかつて存在した東西の交易ルートが復活した。
かつてスキタイ人の時代はギリシアが主な交易の相手だったがこの時代はイタリアが主役だった。
ルーシの地からは穀物、魚、皮革、奴隷などが輸出された。
ハーリチ・ヴォルイニ公国がウクライナの地で最初の国家
キーウ・ルーシ公国の南西にあったハーリチ公国とヴォルイニ公国が合わさってできたもので1240年のモンゴル侵攻によるキーウ陥落以降も1世紀近く存続した。
ヴォルイニ公ロマンがハーリチ・ヴォルイニの両国を合併し新王朝を開いたが、息子のダニーロの治政の時代にモンゴルの征服軍が来て彼はバトゥに臣従の礼を示すためにキプチャク汗国の都サライに行った。
そこでバトゥから馬乳をすすめられたがダニーロはこれを屈辱に感じたとのこと。
その後キプチャク汗国に対する十字軍の呼びかけをローマ法王にしたが、これは実現しなかった。
ダニーロは傑出した君主として存在し他国の干渉を防ぎながらハーリチ・ヴォルイニ公国を東欧の有力国にまでして、後のウクライナの西側の中心地となるリヴィウを新しい街として建設して発展させた。
ダニーロの死後この公国は力を失っていき、1340年代にヴォルイニはリトアニアにハーリチはポーランドに併合された。
ウクライナの歴史家トマシェフスキーは、ハーリチ・ヴォルイニ公国はその最盛期に支配した範囲は現在のウクライナ人が住む土地の9割を含んでおり最初のウクライナ国家だとしている。
ようやくウクライナの地に国家が現れたが、すぐになくなってしまった…というところで話が長くなってしまったので、この後の歴史については次回以降で書いていこうと思っているが、これ本を読んでどうやってまとめていいのか悩んでいるうちに時間だけ過ぎてしまった。